昭和五十七年八月一日 朝の御理解


御理解第六十一節
 「神より金光大神に、いつまでも尽きぬおかげを話にしておくのぞ。信心しておかげを受けたら、神心となりて人に丁寧に話をしてゆくのが、真の道をふんでゆくのぞ。金光大神が教えたことを違わぬように人に伝えて真の信心をさせるのが、神へのお礼ぞ。これが神になるのぞ。神になりても、神より上になるとは思うな。」


 「いつまでも尽きぬおかげを話にしておくのぞ」とこう、いつまでも尽きぬおかげという事は、限りなくという事でしょう。無尽蔵という事でもありましょうね。三代金光様のお言葉の中に「向こうは、開けっ放しでございます」と、仰せられたという事ですね。信心の道が分かって、それをたどらして頂いたらもう、向かうところ開けっ放しであり、限りがないのである、ね。ところが限りないおかげを頂いておる人が、ごく少ない。どうゆう事でしょう。ただ、金光様の信心を頂いとります、というだけでは、やはりいかんようです。金光様の信者です、と言うておるだけでは、いかん。尽きぬおかげを話にして残しておく、と仰せられるから、その尽きぬおかげの頂ける元であるところのその教えを頂いて、その教えがもう、血に肉になっていかなければならんのです、ね。
 「金光大神が教えた事を違わぬように」とも、教えてあります、ね。ですから、どうしても教えがね、その信条になってしまわなければ、教えが、ま、家で言うならば、その家風になってしまわなければ、ね。金光様の御信心ぶりと言うものが身につくと言う事なんです。毎日参りよるから、拝みよるからだけではいかんのです。金光大神が教えられる事を、いつまでも尽きぬおかげを頂けれる話なんです。だからその話が、実験実証さしてもろうて、自分の血肉になっていくと言うところにです、尽きぬおかげ。ま、尽きぬおかげ。これが尽きぬおかげだとわからして頂くような実証をもって人に伝えていく、ね。それが人に伝わらない事はない。伝わっていく、とすると、それが神になるのぞ、と仰せられるのですから、いよいよ信心の格というか信心の徳というものが、嫌が上にもついていくのです、ね。
 二、三日前、夏期信行に一家中でお参りをしてくる方達、息子さん達、ま、嫁になります人が、ね。お知らせをお夢で頂いた、と言うのである。どうゆう夢か、と言うと、も、とてつもない大きな茄子のお知らせを頂かれた。ところがその茄子が、こ、腐れかかっておると言うお知らせであった。次には、あの、この辺では、山しおと言う、あの漬物にする野菜があります。ここ辺では、あれは特産らしいですからねえ。丁度、かつを菜によく似た野菜です。その山しおが、こ、伸び過ぎておる。あれは、切るころがあるわけですねえ。伸び過ぎたら漬物にも漬けられません。どういう事でしょうかと。
 もう、合楽に樺目時代からの信心を、ま、一家を挙げてしております、ね。ですから、一家を挙げて、しかも熱心に信心をしておるのですから、もう言うならば、山しおと言うには、これは修行と言う事、ね。三十、例えば三十年間とするなら三十年間の間、様々な事もあった。それをやはり、ま、修行で受けてもきた。茄子と言えば、ここでは安心とこう言う、ね。「腹立ちをすべて許して 茄子の花」と言ったような御理解を頂いた事があった、ね。どんな場合であってもです、ね。それを、ま、すべて許せる心の状態、ね。
 私は、思うのにね、信心をさいて頂いて教えを、いよいよ血肉にしていく為のそれも大変、難しい教えじゃないのです。も、その気になれば夫婦なら夫婦、親子なら親子が話し合って、これだけは家の、家の信条にするのでと、言うようにしてです。例えば、成り行きを尊ぶで、いよいよ土の心で一家中で行くぞと、ね。この教えだけは、も、その家の信条としてでもと言うような行き方から、言わば家風が変わってくると思うです、ね。人間が変わるだけじゃなくて、家の雰囲気が変わってくるです、ね。もう、三十年も信心を頂いておるのですから、家にはそういう信心を塔と言うようなものも出来て、一家中がその、ま、言うならば、普通で言う安心立命的な意味じゃなくて、ただ安心、ね。言うなら、安心のおかげが頂けておるからこそ、普通でなら腹立つような事でも腹を立てんですむし、ね。修行を有り難いとして受けていく事も出来るし、ね。そういう安心のおかげが、も、こんなにも育っておる。こんな大きな茄子、見たことも事もないような安心にも育っておらなければならんのだけれども、そん安心が腐っておる。腐っていきよる、ね。せっかくの三十年なら三十年の山しおの修行もさせて頂いた。おかげを頂いても教えは、言うならマスターした。けれどもそれを実験しない、実証していかないから、切角のこんな大きな安心のおかげも頂いておるのに、その安心が崩れてしもたり腐れたりしてしまいよる。繰り返し繰り返し、これではいつまでたってもね、言わば、いつまでも尽きぬおかげの世界に住み替える事は出来ないです。ただ、何十年、信心はしております。何十年と言う間ね、様々な言わば、キャリアはついて参ります。おかげを受けるから信心は続いておるのですから。こげん時にあげなおかげを頂いた。あの時には、こういうおかげを頂いたと、ま、おかげは頂いても、そのおかげが言うならば、徳にもなっていかなければ、そん時にはこういう御教えを、に徹してその御教えをがね。例えて言うならば、それこそ文男先生じゃないけれども、腹を立てんと、こ、決めたらです、言うなら今の合楽の言葉で言うと、土の心と言う事じゃないでしょうか。また成り行きを大切にすると言う事でもありましょう。どんな場合であっても腹を立てん。もうそれが、信条になってしまいっとる、ね。例えば、そういう一つの教えが身についてきよるかと思うと、ね。もうあとで考えれば、あげな事に腹を立てたり、あげな時に心を汚したりと、言うような事があっては、ね。せっかくの安心が、こう大きう育っていきよるのだけれども、片っ端からこう、腐っていきよる。おしいでしょうが。私は、この御教えなんかは、金光大神がね、言うならば、天地金乃神様から受けられたお話しと言うのは、いつまで尽きぬおかげをですね。だからそれをね、頂いたり頂かなったりしたら何十年間、そりゃ親子何代が信心も、例えば続いてもです、それが家の徳とも力ともならないならね、やはり尽きぬおかげにならんです、ね。それを精進と言うのです、ね。土の心で行くぞ、腹は立てんぞと決めたらね、それがもう、歯を食いしばらなくても自然に出来てくる、ね。そういう信心をね、身につけていかなければいけません。
 信心とは、結局、徹っする事です、ね。おしいです。何十年の信心でこんな大きな、言うなら見たこともないような安心の徳を受けて、今頃は安心の徳によって、いよいよ尽きぬおかげが頂いて家の上に、家庭の上に、人間の上にもおかげを頂いとかなければならんのですが、それが崩れていきよる。腐っていきよる。切角、漬ごろをししてしまって、とうとう漬物にもされんと、言ったような修行を、山しおの修行をしておってもね、それが言うなら、時節をししてしもうたら漬物にもならんと、言うことになるでしょうが。どうでも一つ、信心が血肉になりませんとね、なら可愛い子供やらに伝えたいと思っても「金光様の信心な有り難いぞ」だけじゃ伝わらんです。はぁ、うちのお爺ちゃんは、こういう。お婆ちゃんは、こうだったと。実際に言うて聞かせる事も、して見せる事もいらん。その日常の中にです。もう、決して腹どん立てる人じゃなかったと、それがおかげになっていくなら、それを見習わんわけにはいかん。 先日は、夏期信行期間で皆さんが、ま、素晴らしい信心修行を身につけられました。一番初めの日に、ま、心、どういうつもりでこの修行を頂いたらよいかと、思うておりましたら神様から「しつけ」と言う事を頂いた。やっぱりしつけが出けとらんとね。失敗せんでよかところで失敗するです。信心のしつけをしっかり受けておるとですね、いわゆる、きちっとした、例えば着物でも縫い上げる時に、しつけと言うものをするでしょ、あれなんです、ね。もう本当にこれは、やっぱり神様の働きを感じん訳にはいかん。ひとつの驚きですが、ね。あの一時の御祈念の始まる時には、も、ほとんどの人がお届けを終わっていますからね。時間励行しなさいと誰も言うた事がない。けどもやっぱ、あなた方が自分で参ったの、拝んだのと言うとるけれども、やはり神様のしつけに導かれながら、あの修行が出来たと言う事。だから、あゝいう修行がいつもの場合に、とにかくね。時間励行なら時間励行というような事が、信心で思うわれる時にです。それを行じぬかせてもらう、血肉になってしまう。あ、それが、あなた、ち、言うてから、も、十分二十分遅くなるとは、もう平気でそれを間違える人がある。成程、言い訳はつきましょう。けれどもそれでは信心の教えが、血に肉になったとは言えません。こうと、決めたらそれがね、行じぬかれねばいけません。
 私、丁度、夏期信行がございましたから、最後の一週間でしたか、一週間、皆さんと反対に修行じゃなくて、楽な方、楽な事になった。お医者さんが言われる通り、今度してみろと思うて一週間でよいから、とにかく休まれる時間を少し増やして下さい。それから御神勤になるのを、とにかく少し早く退がって体を休めて下さい。食べ物はこうして下さいと、も、それをその通り一週間、守らせて頂きましたら、それがやっぱりちゃんと、こう、二、三日、昨日、一昨日でしたか。先生に来て頂いたんですけども、「もう一週間こうして精進をなさると、こんなふうに、その、やっぱり体の調子も良くなります。」と言うて、ま、言われましたんですけども、私は、もう、その方がむしろ修行でした。そして、ま、昨日、前月いっぱいですから、昨日、昨夜の信話会にも出らずに寝ませて頂いとりました。そしたら神様から、寝みながら頂いてます事が、本当に一週間、言うならば、勤めを出来なかった事を思っておりましたら、その事はやはり、マイナスになる、ね。だからこれを、やはりプラスにしていく為には、これにもう一つこれに、掛けなければならない。足さなければならない。マイナスにこう。それを次には×の字を頂いて、その×の字をこう回したら+という字になるところを頂いたんです。だからこれは、何、一心発起と言う事を申しますけれどね。あの、しだこだでは、いけません。修行は出来ません。一心発起しなければ、これだけはやり抜くと言う本当の腹を作らなければ、ね。例えば、腹を立てんと言う、言うならば修行に取り組ませて頂く事。それを一心発起しなければね。また失敗しましたでは、そりゃいいでしょうけども、言うならおかげは頂いても、それはお徳にならん。せっかくの安心が、こ、育っていきよっても片っ端から、こうやって腐っていきよるなら、いつまでたっても言うなら、合楽で三十年もの信心を続けたとするならば、もう、ね。三十年後には、もう、すべての点におかげを頂いて、これがいよいよ続けてさえいけば、ね。日勝り月勝り年勝りにおかげ、限りなく頂けれるおかげの世界に住んどらなければならんのに、ね。そこの辺のところが行きつ戻りつになったんでは、おかげになりません。ですから、今日からまた元に履した修行に、私も入らせて頂きたいと思いますがね。もう修行は、も、本当に何をするにもつきものですけれども、ね。とりわけ、いつまでも尽きぬおかげの頂けるような修行なのですから。しかもその修行が、一心発起すれば誰でも出来る、楽なのですからね。それが出来やすいように、日々みやすう御教えを頂かせて頂くのですから、ね。それが十年も経ち二十年も経ち、それこそ十年も経ったら、わが心が拝めれるような信心に、二十年も三十年も経ったら、もうこれが自分の家の徳になった。これが金光大神が教えられる、ね。尽きぬおかげであろうと思われるような尽きぬおかげの土台が、も、築かれておらなければならないね。そうゆうおかげを頂いて、初めて金光様の御信心を頂いておると言う、言うなら値打があるのじゃないでしょうか。いつまでも尽きぬおかげが頂かれる元。それは何十年信心しよれば、いつかはそうなるという事では、決してないです、ね。いうならば教えが、いよいよ血に肉になり、それが一家の一つの家風ともなるようなおかげを頂いて初めて、ね。限りなくおかげの頂けれるお徳と言うかね。世界に住むことが出来る、ね。「神より金光大神にいつまでも尽きぬおかげを話にしておるのぞ」、ま、今日は、ね、神から大坪総一郎に伝えた御理解こそ、ね。いつまでも尽きぬおかげの頂けれる土台、元になる教えと思うて、しっかりこの辺のところを血肉にしていく修行に取り組まなければいけません。             「どうぞ」